1989年、東欧諸国が相次いで民主化された(東欧革命)。同年5月、ハンガリー政府がオーストリアとの国境を開放すると、ハンガリー経由での亡命に希望を持った東ドイツ国民が、夏期休暇の名目でハンガリーを訪問した。
8月19日、ピクニック事件が発生。欧州議員オットー・フォン・ハプスブルクの支援・ハンガリー政府の黙認により、東ドイツ国民がオーストリアへの越境に成功した。このニュースは瞬く間に広まり、西ドイツ・オーストリアと国境を接するハンガリーとチェコ・スロバキアには東ドイツ国民が殺到した。
ハンガリー経由での出国が可能になった以上、もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり、東ドイツ国内でもデモが活発化していた。人材の流出を防ぐため、1989年11月6日、エゴン・クレンツ書記長率いる東ドイツ政府は、海外旅行自由化法案を発表するが制限がついた法案であったため国民の反発を受ける。11月9日、海外旅行自由化法案に代わる法案で議会の承認を経ずに済む政令である旅行自由化の政令案を作成。党中央委員会で一部の修正を経て可決され即日公布・施行した。
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但し、この政令は報道への発表は翌日の11月10日の朝を予定していた。しかし手違いにより、国境警備隊への連絡の前に生放送で記者会見が行われ、さらに会見を行っていた東ドイツ政府のスポークスマンであるギュンター・シャボウスキー(ドイツ社会主義統一党政治局員)が「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と誤って発表した。
各国メディア及び東ドイツ国営テレビ局などがこれを報道し、同日夜、東ベルリン市民がベルリンの壁周辺の検問所に多数詰めかけ、東西ベルリンを行き来しはじめた。旅行自由化の政令は実際はビザの発給を大幅に緩和する法律であり、越境にはあくまで正規のビザが必要であったが、このときに壁に殺到した市民らはほとんどが正規のビザを持っていなかった。
国境警備隊は東ベルリン市民の暴動と思い込んだため検問所のゲートを開き、検問は事実上行われなかった。このため壁はその意味を失った。このことから、ベルリンの壁がなくなった日は1989年11月9日であるとされることが多い。
壁の一部は日付が変わった11月10日未明、興奮した東西両ベルリン市民によって破壊され、のちに東ドイツによってほぼすべてが撤去された。ただし、歴史的な意味のある建造物のため、一部は記念碑として残されている。また、破壊された壁の破片は土産品として販売されたが、原料であるコンクリートには大量のアスベストが含まれており、壁のかけらの取扱いには注意が必要。
ベルリンの壁崩壊により東西両ドイツの国境は事実上なくなり、東西ドイツの融合を加速した。