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韓侂胄を殺した史弥遠が今度は権力を握り

その後26年にわたって宰相の地位に就く。この時期に北のモンゴル高原にはモンゴル帝国が急速に勢力を拡大していた。史弥遠が死去した紹定六年(1233年)にモンゴルは金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰めて、翌年に金は滅びた。

その後、モンゴルは一旦北に引き上げ、その後を宋軍は北上して洛陽・開封を手に入れた。しかしこれはモンゴルとの和約違反となり、激怒したモンゴル軍は南進を開始する。だが、名将として知られた孟珙の前に苦戦することになり、しばらくは一進一退を繰り返すことになる。

やがて、開慶元年(1259年)にモンケ・ハンの親征軍を受ける。

しかしモンケはこの遠征途中で病死する。この時にクビライが攻めていた鄂州(武昌)に援軍にやってきた賈似道はこれを退却させた(この戦いでは賈似道とクビライとの間に密約があったと後にささやかれることになる)。
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モンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相になり、専権を奮う。賈似道は巧みな政治手腕を示し、公田法などの農政改革に努める一方で人気取りも忘れず、その後15年にわたって政権を握った。

しかしモンゴル平原でアリクブケを倒し、権力を掌握したクビライが再度侵攻を開始し、南宋が国力を総動員して国土防衛の拠点とした襄陽を、1268年から1273年までの5年間にわたる包囲戦で陥落させると、南宋には最早抵抗する力が無く、賈似道は周りの声に突き上げられてモンゴル戦に出発し、大敗した。

徳祐二年(1276年)、モンゴルのバヤンに臨安を占領されて、事実上宋は滅亡した。このとき、張世傑・陸秀夫ら一部の軍人と官僚は幼少の親王を連れ出して皇帝に擁立し、南走して徹底抗戦を続けた。祥興二年(1279年)に彼らは広州湾の崖山で元軍に撃滅され、これにより宋は完全に滅びた(崖山の戦い)。忠臣の鑑と称えられる文天祥も2年以上各地で抵抗戦を続けたが、景炎三年(1278年)に元に捕えられ、獄中で『正気の歌』を詠み、元の至元十九年(1282年)に刑死した。

南宋の滅亡時に国に殉じた忠臣は他の王朝に比べてはるかに多かったが、元の統治下で宋の遺民として生き続けた士大夫もおり、『文章軌範』を編纂した謝枋得、『十八史略』を著した曾先之、『資治通鑑音注』(『資治通鑑』の注釈書)を著した胡三省など、文学・史学で名を残した宋の遺民も多い。

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2009年05月31日 10:02に投稿されたエントリーのページです。

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